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学術・社会

李里花教授が切り拓く在日コリアン研究の新境地―学問と人権の交差点

By Jessica Wood

国籍とは何か。アイデンティティはどこに根ざすのか。これらの問いに真正面から取り組む研究者がいる。早稲田大学人間科学学術院教授の李里花(リ・リカ)だ。日本と台湾にルーツを持つ彼女は、歴史社会学の視点から在日コリアンとディアスポラ研究の最前線を走り続けている。

李里花教授は、在日コリアンの「朝鮮籍」問題、ハワイにおけるコリア系移民のナショナリズム、そしてトランスナショナルな視点からのエスニシティ研究において、国際的に高い評価を受ける社会学者である。一橋大学で修士・博士号を取得後、環太平洋地域における移民の歴史とアイデンティティ形成を探求し、2026年現在も日本移民学会理事・事務局長として学術界をリードしている。

早稲田大学キャンパスの学術研究風景
項目 詳細
氏名 李里花(Rika Lee)
現職 早稲田大学 人間科学学術院 教授
学位 博士(社会学)一橋大学(2011年)
専門分野 歴史社会学・移民研究・コリアン・ディアスポラ論
主要著書 『「国がない」ディアスポラの歴史』(2015年)、『朝鮮籍とは何か』(2021年)
学会役職 日本移民学会理事・事務局長、アメリカ学会評議員
研究テーマ トランスナショナリズム・エスニシティ・ジェンダー・レイシズム

「国がない」ディアスポラ―ハワイのコリア系移民研究

2015年に刊行された『「国がない」ディアスポラの歴史――戦前のハワイにおけるコリア系移民のナショナリズムとアイデンティティ 1903‑1945』は、李里花教授の代表作として知られる。この著作は、20世紀初頭にハワイへ渡ったコリア系移民が、母国の植民地支配という現実の中で、どのようにナショナリズムとアイデンティティを形成していったかを詳細に追っている。

1903年から1945年という時代設定には深い意味がある。この期間は朝鮮半島が日本の統治下に置かれた時代と重なる。移民たちは「国を持たない人々」として、異国の地で生活しながらも祖国への想いを胸に抱き続けた。李教授はハワイ各地のアーカイブを徹底的に調査し、当時の新聞記事、手紙、コミュニティ記録を丹念に読み解いた。

その結果、明らかになったのは単純な「祖国愛」ではなかった。移民たちは独立運動への支援、次世代への教育、そしてアメリカ社会への適応という複数の目標を同時に追求していた。李教授はこの複雑な心理状態を「多層的アイデンティティ」と呼び、ディアスポラ研究に新たな視座を提供した。

環太平洋地域における移民ネットワークの再評価

李教授の研究は、ハワイだけに留まらない。環太平洋地域全体における移民ネットワークの形成過程を追跡することで、従来の国民国家中心の歴史観を問い直している。カリフォルニア、メキシコ、そして日本を含む広域ネットワークの中で、コリア系移民がどのように情報を共有し、連帯を築いていったかを明らかにした。

この研究手法は「トランスナショナル・ヒストリー」と呼ばれる。国境を越えた人々の移動と交流を重視する歴史学の新潮流だ。李教授はこの分野の日本における第一人者として、アメリカ学会や日米史学会で積極的に発表を行っている。

ハワイのコリア系移民コミュニティ歴史写真

「朝鮮籍」の真実―法的地位と社会的現実のギャップ

2021年に出版された『朝鮮籍とは何か―トランスナショナルの視点から』は、日本社会における最も誤解されている概念の一つに光を当てた。多くの日本人が「朝鮮籍」を北朝鮮の国籍だと誤解している。しかし実態は全く異なる。

朝鮮籍とは国籍ではない。これは日本政府が在日コリアンに対して使用する「記号」に過ぎない。1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、在日コリアンは日本国籍を失った。その後、韓国籍への変更が可能になったが、様々な理由で変更しなかった人々に対し、日本政府は便宜的に「朝鮮」という表記を使い続けている。

李教授はこの問題を単なる法制度の問題として扱わない。朝鮮籍保持者が直面する日常的な差別、就職における不利益、そして社会的スティグマを詳細に記録している。インタビュー調査を通じて、朝鮮籍保持者の生の声を丁寧に拾い上げた。

法的地位の曖昧さが生む人権問題

朝鮮籍保持者は約3万人と推定される。彼らは韓国政府からも北朝鮮政府からも保護を受けられない、文字通り「国がない」状態に置かれている。海外渡航の際には「再入国許可」が必要で、手続きは煩雑だ。金融機関での口座開設や携帯電話契約においても、追加的な書類提出を求められることが多い。

李教授は、この問題を人権の観点から国際社会に訴えている。国連の人種差別撤廃委員会でもこの問題が取り上げられ、日本政府に対して改善勧告が出されている。しかし、国内での議論は依然として不十分だ。李教授の研究は、この沈黙を破る重要な役割を果たしている。

「見られる身体」としての在日外国人女性

2026年、李教授は富坂キリスト教センター紀要に「『見られる身体』としての・在日外国人女性」と題する論文を発表した。この研究はジェンダーとエスニシティの交差性(インターセクショナリティ)に焦点を当てている。

在日外国人女性は二重の視線にさらされている。外国人としての視線と、女性としての視線だ。李教授は、この二つの視線が交差する時、特有の差別構造が生まれることを指摘する。例えば、在日コリアン女性は「エキゾチック」な存在として性的対象化されやすく、同時に「危険な外国人」というステレオタイプにも縛られる。

この研究は単なる理論的考察に留まらない。具体的な事例として、就職面接での経験、公共空間での視線、メディア表象などを分析している。李教授自身の経験も研究の出発点となっており、当事者性と学術的客観性のバランスが見事に取れた論考となっている。

社会学におけるジェンダーとエスニシティ研究

一橋大学での学問的基盤形成

李里花教授の学問的基盤は一橋大学で培われた。2000年に修士号、2011年に博士号を取得している。一橋大学社会学研究科は、日本における社会学研究の中心地の一つであり、批判的社会理論の伝統が強い。

この環境で李教授は、厳密な史料批判の方法論と、社会的弱者の視点を重視する研究姿勢を身につけた。指導教員や同僚研究者との議論を通じて、トランスナショナリズムという研究枠組みを洗練させていった。博士論文はハワイのコリア系移民に関するもので、これが後に代表作となる著書へと発展した。

学際的アプローチの確立

李教授の研究は、社会学、歴史学、人類学、ジェンダー研究を横断する学際的性格を持つ。この幅広さは一橋大学での訓練に加え、国際学会での積極的な交流によって磨かれた。アメリカ社会学会、アジア研究学会など、複数の国際学術組織で研究発表を重ねている。

特に注目すべきは、英語と日本語の両言語で高度な学術論文を発表している点だ。これにより、日本国内の研究成果を国際社会に発信すると同時に、海外の最新研究を日本に紹介する橋渡し役を果たしている。

日本移民学会での指導的役割

李教授は日本移民学会において理事と事務局長を務めている。この学会は1991年に設立され、日本からの移民研究だけでなく、日本への移民研究も対象とする総合的な学術組織だ。約300名の会員を擁し、年次大会や機関誌発行を通じて研究交流を促進している。

事務局長としての李教授の貢献は大きい。学会運営の効率化、若手研究者の育成、そして社会への研究成果の還元に尽力している。特に、移民・難民問題が政治的に敏感な日本社会において、学術的な議論の場を維持することは容易ではない。李教授は学問の自由と社会的責任のバランスを取りながら、学会を運営している。

次世代研究者の育成

早稲田大学での教育活動も重要な柱だ。人間科学学術院は、文理融合型の学際的研究と教育を特色とする。李教授のゼミには、在日コリアン研究、移民研究、ジェンダー研究に関心を持つ学生が集まる。

ゼミでは文献購読だけでなく、フィールドワークやオーラルヒストリーの方法論も教えている。学生たちは実際にコミュニティに入り、当事者の声を聞く経験を積む。この実践的訓練が、次世代の研究者を育てている。

日本の大学における社会学ゼミ風景

レイシズム研究と現代日本社会

李教授の研究テーマの一つに、レイシズム(人種主義・民族差別)がある。日本社会は長らく「単一民族国家」という神話に囚われてきた。しかし現実には、在日コリアン、アイヌ民族、琉球民族、そして近年増加している外国人労働者など、多様な人々が暮らしている。

李教授は、日本におけるレイシズムの特徴を「見えない差別」と表現する。露骨なヘイトスピーチだけが差別ではない。就職差別、住居差別、教育における不平等など、制度的・構造的な差別が日常に埋め込まれている。これらは「仕方がない」「文化の違い」といった言葉で正当化されがちだ。

2010年代以降、ヘイトスピーチが社会問題化した。李教授は研究者として、また当事者に近い立場から、この問題に積極的に発言している。学術論文だけでなく、一般向けの講演やメディア出演を通じて、レイシズムの実態と対策を訴えている。

トランスナショナリズムの理論的展開

李教授の研究を貫く中心概念がトランスナショナリズムだ。これは1990年代以降、移民研究において注目されるようになった理論枠組みである。従来の移民研究は「出身国から受入国への一方向的移動」というモデルで捉えられていた。しかしトランスナショナリズムは、移民が複数の国や地域との繋がりを維持しながら生活する現実に着目する。

在日コリアンは、まさにトランスナショナルな存在だ。日本で生活しながらも、韓国や北朝鮮との繋がりを持ち続けている人が多い。親族訪問、ビジネス、文化交流など、国境を越えた活動を日常的に行っている。李教授はこうした実態を丁寧に記述し、理論化している。

グローバル化時代のアイデンティティ

トランスナショナリズムの視点は、アイデンティティの理解も変える。「日本人か韓国人か」という二者択一ではなく、「日本人でもあり韓国人でもある」という複数のアイデンティティを同時に持つことが可能だ。李教授はこれを「ハイフンで繋がれたアイデンティティ」と呼んでいる。

この視点は、グローバル化が進む現代社会において、ますます重要性を増している。国際結婚、海外での就労、複数国籍の保持など、トランスナショナルな生活様式は特殊なものではなくなりつつある。李教授の研究は、こうした時代の先駆けとなっている。

研究が社会に問いかけるもの

李里花教授の研究は、日本社会に重要な問いを投げかけている。私たちは「国民」をどう定義するのか。誰が「日本人」で、誰が「外国人」なのか。その境界線は本当に明確なのか。

在日コリアンの多くは、日本で生まれ育ち、日本語を母語とし、日本文化の中で生活している。しかし法的には「外国人」とされる。この矛盾は、国民国家という枠組みの限界を示している。李教授の研究は、より包摂的で公正な社会を構想するための基礎資料となっている。

同時に、研究は当事者にとっての「承認」の意味も持つ。長らく不可視化されてきた在日コリアンの経験と歴史が、学術的に価値あるものとして記録される。これは単なる記録以上の意味を持つ。存在を認められること、声を聞かれることは、尊厳の回復に繋がる。

今後の研究展開と社会的意義

李教授の研究は現在進行形だ。2026年の論文「見られる身体」は、今後さらに展開される予定だという。ジェンダーとエスニシティの交差性は、まだ十分に研究されていない領域であり、李教授の継続的な取り組みが期待されている。

また、第二世代・第三世代の在日コリアンが直面する新たな課題も研究対象となるだろう。世代が進むにつれて、朝鮮半島との繋がりは薄れていく。その中で、アイデンティティはどう変容するのか。コミュニティはどう維持されるのか。これらは緊急性の高い研究テーマだ。

さらに、日本社会全体における多文化共生の実現に向けて、李教授の研究は重要な指針を提供する。外国人労働者の増加、難民受け入れ、国際結婚の増加など、日本社会は急速に多様化している。その中で、在日コリアンの歴史と経験から学ぶべきことは多い。過去の過ちを繰り返さないために、そして真の共生社会を実現するために、李教授の研究は不可欠な知的資源となっている。

よくある質問

李里花教授の専門分野は何ですか?

李里花教授は歴史社会学を専門とし、特に在日コリアン研究、移民研究、コリアン・ディアスポラ論、エスニシティ、レイシズム、ジェンダー、トランスナショナリズムを研究テーマとしています。環太平洋地域における移民の歴史とアイデンティティ形成を探求しています。

「朝鮮籍」とは何ですか?

朝鮮籍は国籍ではなく、日本政府が在日コリアンに対して使用する法的「記号」です。1952年のサンフランシスコ講和条約後、韓国籍に変更しなかった在日コリアンに対して便宜的に使われています。約3万人の朝鮮籍保持者は、韓国政府からも北朝鮮政府からも保護を受けられない状況にあります。

李教授の代表的な著作は何ですか?

代表作は『「国がない」ディアスポラの歴史――戦前のハワイにおけるコリア系移民のナショナリズムとアイデンティティ 1903‑1945』(2015年)と『朝鮮籍とは何か―トランスナショナルの視点から』(2021年)です。これらはコリアン・ディアスポラ研究の重要文献として国際的に評価されています。

李教授はどのような学会活動を行っていますか?

日本移民学会の理事・事務局長、日米史学会の編集委員、アメリカ学会の企画委員・評議員を務めています。国際学会でも積極的に発表を行い、日本の移民研究を国際社会に発信する橋渡し役を果たしています。

トランスナショナリズムとはどういう概念ですか?

トランスナショナリズムは、移民が複数の国や地域との繋がりを維持しながら生活する現実に着目する理論枠組みです。従来の「出身国から受入国への一方向的移動」モデルを超えて、国境を越えた活動や複数のアイデンティティを持つことの重要性を強調します。李教授はこの視点から在日コリアン研究を展開しています。